illust by 高遠[カラン](Grazie!!!)



アイの世界





始業式も入学式も無事に終わり、風紀の仕事に余裕が出てきた頃、雲雀はちょうど体調を崩してしまった。暖かい日が続くようにはなったものの、季節の変わり目には違いなくて、ひいてしまった風邪をこじらせたのだ。季節の変わり目や冷え込みの厳しい日が続くとすぐに風邪をひいていた幼い頃を思えば、風邪をひく回数は大分減った。とはいえ、風邪をもらいやすく、そしてこじらせやすい体質は一生変わらないのかもしれない。
春先は浮かれる新入生や、気の緩んだ在校生が増え、全体的に素行の良くない人間が増える時期だ。そうじゃなくても花見の時期は群れがあちこちで発生するし、酔っ払いの馬鹿な行動が多々見られる。それを取り締まるための人員はいくらあっても足りなかった。
急ぎでなければ自宅療養をしている所だが、今は少しでも時間が惜しい。そう思って雲雀はしばらく病院に入院し、ある程度治した時点で退院して風紀活動の先頭に立った、のだが。

放課後、人の気配のない廊下を歩きながら雲雀は内心舌打ちをしたい気持ちで一杯だった。狭い視野に映る世界がいつもよりもブレている。ぐらりと身体が揺らぎそうになるのを何とか堪えている状態だ。
落ち着いたと思っていた風邪が、どうやらぶり返してきたようだ。昨日夜桜見物と称した馬鹿騒ぎをしている群れを咬み殺すため、夜遅くまで外にいたのがまずかったのだろう。春とはいえ夜はまだ寒い。特に昨日は花冷えの寒い夜だったから尚更である。それに夜は日中以上に視界が利かない。神経をかなり使って疲弊した事も、体調を崩した理由になっているかもしれない。
朝から具合が良くなかったのは感じていたが、どうしても今日中に終わらせたい書類が山のようにたまっていたので登校したものの、いつも以上に利かない視界のせいでこんなに遅くなってしまった。
元々書類作業は好きじゃない。文字を読むという行為は、どんなに発達した五感でもカバーできない事だ。それに視野が限りなく狭いため、長文になるとどこまで目を通したのかわからなくなる事もある。こればかりは通常の人間の倍以上の時間をかけてやらなければならない。
己の目が見えず、人より劣っている事を自覚する作業だからあまりやりたくない。やりたくないから、溜まっていく。結果がこのザマだ。何とか全てを片付けた頃には既に日も傾き、校内に生徒がいる気配はほとんどないのは不幸中の幸いである。
体調が良くない分、気配を探る事に神経を割く余裕はない。だから校内の人が減ってから帰ろうとは思っていたので、ちょうどいいと言えば良かった。

自分の足音だけがやたらとよく響くのを聞きながら、ぼんやりした頭で歩く。雲雀にしてみれば非常に珍しい事だが、それほど身体が辛いという事でもある。学校に来た時よりも熱が上がっているんじゃないだろうか。羽織っている学ランを脱ぎ棄てたい位に身体が熱いから、多分間違いない。
ただでさえ視野が狭い所に物がブレて見える悪条件が重なっているのだ。これ以上熱があがってフラついているのが誰かに知られる前に早く帰らなければ。
そう思って気が急いていたのがいけなかったのか。
数メートル離れた所にある教室のドアの開く音がして初めて、まだ生徒が残っていた事に雲雀は気付いた。
全てがブレて見える目ではクラス名まではわからないが、自分が歩いている階にあるのは一年のクラスだから新入生なのだろう。そして狭い視野では未だに捉えきれていないものの、神経を張り詰めさせれば音のした所に誰かいる事もわかった。

「ヒ、ヒバリさん……っ……」

ひきつった声は若干高めではあるが、男子生徒のものだった。ガタガタと音がしているのは、動揺しているのかなんなのか、教室の引き戸に身体をぶつけたりしているせいだろうか。ひどく耳触りだ。

「下校時間は過ぎてるはずだけど」
「す、すみませんすみません! そ、その、えっと、それが、その、あの、ええと」
「はっきり言え」
「すみません! テ、テストの結果が悪くて、それで、い、いいいい居残りのテストで、それが終わらなくてそれでえっと残ってたらこんな時間で、その……っ」

いまいち要領を得ていないが、言いたい事は何となくわかった。要するに入学早々のテストで早速ひどい点数を取り、担任から居残りのプリント課題か何かを与えられていたのがやっと終わったか、それとも下校時間が過ぎた事で免除されたか、どっちかだろう。どちらにせよ、頭がよろしくないのだけは良く分かった。
びくびくとした態度は雲雀が最も嫌う草食動物のそれと似ている。体調が悪くなければ、下校時間を過ぎてもまだ残っていた罰として咬み殺してやる所だ。しかしそれも煩わしいと思う位、今はとてもしんどい。
そのしんどさと比例するように、視界のブレが酷くなってきた。元々数十センチほど離れてしまうだけで物が見えなくなるような目だが、今はどんなに近くにあっても色の判別しかつかない。だから数メートル離れている男子生徒なんて、輪郭さえ怪しい位だ。
それでも窓から差し込む夕日に照らされているため、男子生徒がオレンジ色に浮かび上がって見える。なんとなく、頭の部分がより一層眩しく見える気がした。染めているのだろうか。しかしここまで怯えの気配が濃いような草食動物が、入学早々目をつけられるような真似をするとは思えない。でもそんな事、今はどうでもいい。

「わかったから、終わったならさっさと帰りな」
「す、すすすすみませんでした! すぐ帰ります!」

一際眩しく見えるオレンジ色の位置が下がる。頭を下げたのだろう。そしてそれが元の位置に戻ると同時に遠ざかって行った。バタバタと慌ただしい足音も聞こえる。随分と鈍臭い。
遠ざかるそれを何とはなしに見ていたのは、完全に見えなくなったら自分も帰ろうと思ったからだ。しかしそれは叶わなかった。
何故なら雲雀の意識も遠ざかってしまったから。




人の肌とは違うものに触れる。ペットボトルだ。それを掴もうとした時、草食動物の腕が僅かに揺れる。多分、雲雀が手を伸ばしてきた事に本能的な怯えが走ったのだろう。小さな動揺が小さな動きとなって現れただけの事である。けれどそれは雲雀にとって大きな動きだった。
元々通常の六分の一程度しかない視野。いつもよりもブレて見える世界。熱のせいでいつもよりも鈍い反応。
雲雀は草食動物が動いたせいで、狙いを定めていた所よりもほんの数センチずれた程度のペットボトルを掴めなかった。
ゴトン、と重い音を立ててペットボトルが落ち、それ以上に重い沈黙が降りてくる。いくら愚鈍な草食動物でも、今の雲雀の行動と反応の鈍さはおかしいと思うだろう。だからこその沈黙だ。
見えてさえいれば、多少ペットボトルの位置がずれてもすぐに軌道修正できるものなのだろう。弱視であっても雲雀の体調が万全であれば、視界的に不利があっても持ち前の勘の良さや反射神経でカバーできたはずだ。
今度こそ雲雀は舌打ちをする。重い沈黙を破るその音に草食動物は弾かれたように動きだし、落としたペットボトルを拾いあげながら恐る恐る問うてきた。

「もしかして、目が……見えないんです、か?」
「同情してるつもりなら咬み殺すよ」
「同情なんて、そんな事……! そりゃ大変だろうなとか、その……か、可哀想だな、とは思います、けど……」

やはり咬み殺してしまおう。そう思って仕込んであるトンファーに手を伸ばしかけた時、目の前の草食動物がまた喋り出す。

「でも、オレはすごいって思ってます!」

ぴたりと雲雀は動きを止めた。

「……何がすごいって思うの。目が見えにくいのに風紀委員長をしてる事?」
「それもそうなんですけどオレ、今まで知らなかったんです。何度か遅刻して、ヒバリさんに取り締まられた事があったんですけど……でも全然わかんなくって、目が見えてるオレよりも何でもできるし……すごいです」

もし、声音に少しでも怯えがあったり、へつらったような空気が含まれていれば、雲雀は迷わずトンファーを握りしめて彼を咬み殺していただろう。それこそ病院送りにする位、酷い怪我を負わせていたはずだ。
なのに彼の言葉には怯えがなかった。媚びる空気もなかった。僅かに声が上ずっているのは、興奮しているか何かなのだろう。怯えた人間が発する特有のびくついた気配が、今の彼からは全く感じられない。

「オレなんかに言われても全然嬉しくないっていうか、馬鹿にされたって思うと思いますけど……本当に、すごいって思います!」


「ねえ、名前は?」
「へ?」
「君の名前だよ」
「さ、沢田綱吉です! 一―Aの!」
「………ああ、遅刻者名簿でかなり上の方にいる名前だ。そう、君が沢田綱吉か」

一年生という、入学してさほど時間も経ってない頃から早速遅刻を何度もしている割に、不良っぽい気配が全くないから、変わった草食動物だと思っていた。何度か遅刻の制裁を雲雀自ら加えた事がある。しかし一撃であっさりと沈んでいて、あまりの弱さに気に留めていなかったのだが、話してみればみるほど、そこらの草食動物と少し違うように思える。

「すみません……! あ、あの、寝坊は、気をつけてるんですけど……つい……」
「勉強をして夜更かし、って訳でもなさそうだね、補習してる位だし。ゲームか何かでもして寝過ごしてるんだったら許さないよ」
「ごっ、ごめんなさい!」

勢いよく頭を下げる音がする。ふわり、と空気が動く位だから、多分きっちりと腰を曲げているに違いない。どうやら雲雀は図星をついてしまったようだ。咬み殺される事に怯えている彼に、雲雀は「今度から気をつければいい」とだけ伝え、制裁を加える意思がない事を暗に伝える。すると彼から恐る恐る、窺うような視線が送られてきた。多分、本当に殴られないのか不安なのだろう。

「お茶、もらったからね」

理由を言えば、今度こそ彼はホッと安堵の溜息をもらして笑ったようだった。

「そういえば身体大丈夫なんですか? いきなり倒れちゃう位具合悪かったんなら、病院とか行った方が……」
「少し寝たから今すぐ病院に行くほどじゃない。それより施錠時間だ。早く帰りな」
「え、でもヒバリさんは……?」
「鍵をかけてから帰る。だから君が帰らないと僕も帰れない。さっさと帰れ」
「すみませんでした! すぐ帰ります! だから、あの、お、お大事に……」
「うん」

ばたばたと慌ただしく床に置かれていたバッグを掴んで、雲雀に頭を下げる。淡いオレンジ色の頭が上下に揺れるのを見ながら雲雀は軽く頷いた。

「気をつけて帰りなよ、沢田綱吉」
「はい!」
 
またぺこりと頭を下げ、彼は―――綱吉は雲雀の横をすり抜けて行く。それを見送るように視線を動かして雲雀は見つめた。
ぼやけた視界から、ベージュ色の制服が消える。
静かになった保健室を雲雀はぐるりと見回した。白い。置かれている棚も白色を基調にしたものだから、余計に白い部屋という印象が強い。
さっきまで近くにいた淡いオレンジがなくなるだけで、一面真っ白という単調な視界になってしまう雲雀の目は、認めたくはないが『欠陥品』である。どんなに否定しても、これは逃れようのない事実だ。だからこそ雲雀は同情されるのが嫌だった。そんな目を、言葉をかけてくる人間を一掃した。悟られる事がないよう、自らの神経を研ぎ澄ました。
そんな自分を、彼は「すごい」と言った。雲雀の持つ力を怖がっているくせに、幼い頃に見た特撮ヒーローに似ていてかっこいい、と。
そこに同情はない。憐憫もない。あるのは「憧れ」。
今まで雲雀が向けられた事のない感情。

「……面白い子」

呟いた声は、自分で思っていたよりもずっと楽しそうな響きを伴っていて、雲雀は少しだけ驚いた。
でも、悪くない気分だった。






「ヒバリさん!」

声がした。不意に視界が明るくなった気がした。
その次の瞬間には鈍い音がした。
硬いもので、人間の頭を殴りつけた音だ。雲雀が幾度となく他人にさせた音だ。
明るくなった視界が、ゆっくりと暗くなっていく。
見えないはずの目がその瞬間だけ鮮明になった。
彼の瞳がゆっくり閉じていくのさえ見えた気がした。
淡いオレンジがゆっくり崩れ落ち、暗くなる視界は真っ赤に染まった。







「……ごめん」





表紙は高遠さんから頂きました。お忙しい中今回も本当にありがとうございます……!)

雲雀が弱視の話で、一応原作沿いといえば原作沿いですが、黒曜編とかそこらを綺麗にスルーしています。
そしてサンプル文はちこちからの切り貼りなので、実際に本を読まれた際、色々と違って見えるかと思います。